まとめ
- 市場原理と計画経済の間でより良いバランスを追求するのが農業経済学
- 市場原理は基本的に人間より偉大
- COVID-19危機を乗り越えるために、今一度社会的な合意が必要
農業経済学の起源
農業経済学とは、農業・農村・フードビジネスの経済的・文化的な側面に着目する学問で、農学の一分野です。そもそも農学が対象とする領域自体が相当に広く、化学・工学・生物学など、様々な学問分野が横断的に含まれます。また日本の多くの大学においては獣医学や気象学、林学といった領域も農学部に包括されています。とにもかくにも、諸科学を用いて現実に接近して、あるいはそれらの手法を複合的に活用して「一次産業の進歩と発展に貢献する」ことを目的とする学問は全て農学である、と言い切って差し支えないでしょう。
そうした自然科学の中に混じって、なぜ経済学・社会学的なアプローチを殊更「農業」に試みる必要があるのか? それは農業経済学が、行き過ぎた文明礼賛に対する反省として発展してきた歴史があるからです。
18世紀半ばにイギリスで発生した産業革命は、文字通りそれまでの産業を完全に一転させ、生産力の大幅な増大、国民生活の物質的な豊かさをもたらしました。一旦人口が増大すれば、工業が発展し、都市が拡大すると農産物需要が増えることになります。農産物価格は高騰し、それがさらに農業者の労働意欲を高め、技術開発や経営方針の効率化へと向かい更なる発展を招く、という正のスパイラルに入ったということです。また同時に、フランス革命を代表とするブルジョア革命が従来のキリスト教的世界観から人々を開放しました。自由・平等・博愛を旨とする市民社会が徐々に形作られていく中で、「文明には正常で自然な状態があるはずで、我々はそうした理想の社会に確かに近づいているんだ」という上昇志向が社会全体にあったと言えます。

しかしながら、文明の発展は資本の蓄積をもたらしました。そして資本主義には富の独占、環境汚染、格差の拡大、貧困の蓄積とその再生産・固定化といった「負の側面」があることも同時にわかってきます。平等という本来の思想に反して、経済的不平等が拡大することが社会全体で強く問題視され始めます。特に不況や恐慌といった、資本主義が持つマイナス面の影響を最も受けるのは伝統的な小規模農業者です。「農業・農村社会の資本主義化がこのまま進行していけば、農業機械と技術を独占する大規模農業者が市場を完全に支配し、小規模農家を駆逐してしまうであろう」とカウツキーは予言しました。現代資本主義に生きる我々からすれば「合理化・効率化で結構なことじゃないか」という気がしてしまいますが、それは社会に飢餓がない飽食の時代であり、なおかつ移動と職業選択の自由が保証されていて初めて通用する理屈です。国民を扶養することすら難しかったこの時代、市場原理をそのままにしておくことは、人口のほとんどを占める小規模農業者を「ほとんど超人的な勤勉に耐え、わずか七歳の児童をも手伝わせ、買いたい物も買わない、過剰労働と過少消費という貧しさ」の中で餓死させることを意味したのです。
このように、資本主義が持つ副作用への処方箋として農業協同組合の概念や、マルクス主義という荒療治が発明されました。また折衷案として社会政策の理論的研究がスタートすることになります。もちろん19世紀と現代では、特にハーバー・ボッシュ法の発明以前と以後では収量や生産性が桁違いですし、社会構造も全く異なっているので単純に応用することはできませんが、資本主義そのものを研究対象とする農業経済学の存在意義は未だ失われていません。

例えばアメリカ全土を巻き込んだ有名な議論として、ダイヌーバ=アーヴィン論争というものがあります。人類学者のウォルター・ゴールドシュミットは1940年代のカルフォルニア州に位置する、ダイヌーバとアーヴィンという同類型の農業地帯を比較して、農場の規模が大きくなればなるほど、地域共同体の文化的な質が低下するという事実を明らかにしました。大規模な集約農業は一見合理的に見えますが、農村コミュニティを維持することができず、農業者の幸福度を著しく下げてしまうため、かえってサステイナブルではなかったということです。このことは、短期的な投機行動だけでは食料の生産基盤は維持できず、長期的な視点を持った地域開発・農業政策の必要性を示唆します。ゴールドシュミット論文は、農業の近代工業化に対して初めて疑問を投げかけた研究として、今でも多くの文献に引用されています。
我が国の食料供給基地として国民の食生活を支える北海道も、実はゴールドシュミット論文に極めて近い状況にあります。明治以後、開拓地として発展した北海道は重化学や炭鉱事業といった大規模産業に特化し、いわゆる町工場のような自営業層を育ててきませんでした。そのため1990年代以後、全国的な不況の影響を受けて製造業・建設業が地方から後退した際、急激な過疎化が進行します。離農された方々の農地を吸収して、北海道農業の事業規模は他府県とは比べ物にならないほど拡大しました。大規模化の流れは今後も続いていくでしょうし、規模拡大は食料の安定供給、国際競争力の確保のためには必要不可欠です。
しかしながら、農村コミュニティを形成するのは農業関係者だけではありません。地域には学校や役場、病院といったインフラが不可欠です。地方の人口密度がこれ以上低下し、共同体機能を維持することができなくなれば、農家世帯の子育てや生活自体が難しくなってきてしまい、農業経営体の存続や継承が困難になってきます。北海道が様々な農畜産物において国内生産量一位であることを考慮すれば、これは日本全体の食料安全保障上大きな問題です。また北海道は中国・北朝鮮・ロシアといった国々と地理的に近接しており、そうしたエリアに人口の空白地帯を量産することは、国防の観点からも看過できない課題になります。北海道の食料生産能力を維持していく上で、公務員の増補や新たな地域産業の擁立は絶対に必要です。そしてこうした現実を解決するロジックを、市場原理は持っていないのです。
このように農業経済学は、「市場原理と計画経済をどう止揚させて、国民の幸福を最大化させるか?」という問いに取り組み続ける学問であると言えます。自由と競争を重んじるリバタリアニズムとは、対極にあるものだと言ってもいいかもしれません。
市場を歪めるということ
しかしながら、市場に介入する、つまり需給を歪めることには大きなリスクが伴います。その理由として様々な説明が試みられていますが、端的に言えば「人間は全知全能ではないから」です。市場はありとあらゆる情報を織り込んで価格と数量を決定できますが、人間には時間的・能力的な制限があるために全ての変数を把握することができません。そのため、人間が市場に介入すると概ね失敗します。

市場介入の最も失敗した例は、やはりソ連の集団農業政策、そして中国の大躍進政策が挙げられます。経済システムや生態系を完全に無視した、社会主義国家による生産ノルマの押し付けは、産業・インフラ・自然環境を完全に破壊し、結果的に何百、何千万人規模の大飢饉を発生させました。これらはホロコーストと並ぶ、有史以来最悪の人為的災害と呼ぶ他ありません。
一方、我が国における市場介入最大の失敗はなにか?と問われれば、昭和30年代から始まった米価引き上げ政策であると私は思います。農業保護の思想が色濃く注入された農業基本法が昭和36年に制定されたことを受けて、業界団体による米価の引き上げ運動が激化し、農村票を取り込みたい与野党がこれを強力にバックアップしました。異常な勢いで米価が毎年上昇し、水田開拓が日本中で進行することになります。戦時中の食糧難を解決するために施行された食糧管理法が、政府による米の無制限買取を当時保証していたこともあり、米の過剰在庫は財政赤字や古々米の流通という様々な問題を引き起こしました。また米価のみが異常に釣り上げられていたことで、他作物への転作や技術開発が強力に抑制されてしまいます。
過剰問題が顕在化した昭和45年、高米価政策への見直しと生産調整、いわゆる減反政策がスタートしました。しかし、政府の急過ぎる方向転換により、既に水田開発に多額の資金を投入していた農家は経済的・精神的に大きな打撃を受けます。「お上」への不信感が拡大し、増産を志向する農家と減反を目標に掲げる政府・自治体の関係は急激に悪化しました。
生産調整の本来の目的は、市場価格を浮揚させながら過剰在庫を解消するという、生産者・消費者・納税者全員の利益に与することでした。しかし、高米価維持・無制限買取という「楽園」からスタートした減反政策は、農業関係者の理解を得られないままに強硬に遂行され、さらなる反発と軋轢を招きます。2018年まで続くことになる、減反政策を巡る農村闘争の激しさについては万巻の書がありますが、収益関係の歪曲がもたらした過剰な水田投資、麦・大豆の自給力不足、そして農村部に残された遺恨という「負の遺産」は、未だに日本農業と農政に色濃く影を落としていると言えます。
このように、ひとたび市場を歪めてしまうと、適正な価格にソフトランディングさせることが極めて難しくなるだけではなく、周辺市場や利害関係者に大きなリスクや負担を強いる可能性があるのです。公共政策というものは、科学的かつ理論的に、民主的なプロセスを経て遂行されなければならない、ということがここからよくわかると思います。
「新自由主義的な農業」の限界
個人の自主性を重んじる、自由競争市場が持つ最大の利点は、個々人の経営努力によって生産性が自然と上昇していくことに加えて、イノベーションを誘発し社会全体が豊かになることです。これを国家が抑制してしまうことの愚かさについては、既に触れました。実際に日本では中曽根内閣以後、新自由主義的政策が推し進められてきましたし、農業業界も例外ではありません。小泉進次郎氏、橋本徹氏などが支持している「農協不要論」は、こうしたリベラリズムを論拠に持っています。
しかしながら、天候という自然状況の影響を強く受け、商品の劣化速度が極めて速く、播種(生産)と収穫(販売)の間に大きな時間的ラグが存在する農業と、そういった制約条件を一切持たない他の産業とを、同様の経済理論で一括りに取り扱ってよいのか、ということについては、社会的な議論が今改めて必要だと思います。特にIT革命以後、情報が富の源泉となるこの高度知識社会の中で、土地を生産単位とせざるを得ない農業のハンディキャップは相対的に増大したと私は考えています。
どれだけ社会が発展しようとも、人間は毎日飯を食わなければ生きていけないのですから、農業の必要性は変わりません。その農業が危機に瀕しているのであれば、それは国家が解決に取り組まねばならない、喫緊の課題と言えるでしょう。
というのも、コロナ禍を通じて外食需要が消失したことで、多くの農畜産物が過剰供給になり、農業経営を圧迫しています。特に深刻なのは、凄まじい勢いで日々積み上がる牛乳の過剰在庫です。現在、官民問わず、「お願い」ベースの消費拡大キャンペーンが打たれていますが、例えば政府による買い上げ、生活困窮者への配分といった需要創出政策はあまり検討されていません。この緊縮財政の背景には、やはり減反政策への反省があるのかもしれませんが、コロナ禍という非常事態においても尚、市場を尊重し続けるべきなのかどうか、再考の余地があります。
無論、繰り返しになりますが、価格支持政策や生産調整には様々な弊害があり、それらは十分に検討されなければなりません。しかし、コロナ禍の急激な需要変動の「責任」を農家だけに転嫁してしまえば、あまりに多くの離農を促進することとなり、国の生産能力を大きく損なってしまうであろうことだけは、間違いのないことです。一度失われた生産機能を取り戻すには大きなコストが掛かってしまいますから、今大切なのは、「農業政策とは、本当は消費者のためになるものなのだ」という社会的コンセンサスを醸成していくことではないでしょうか。国家が担う役割を議論するリバタリアニズムから、我々も学ぶべきことはたくさんありそうです。
参考文献
・荒幡 克己,『米生産調整の経済分析』,農林統計出版,2010
・祖田修,『近代農業思想史 21世紀の農業のために』,岩波書店,2013
・Michael Carolan, The Sociology of Food and Agriculture (Earthscan Food and Agriculture),Routledge, 2016
・農林水産省,令和4年度農林水産予算概算要求の概要,2021,2021/12/22アクセス
コメント