はじめに
経済的自由と社会的正義をともに重視することが新古典的自由主義であると過去に述べたことがある。
この立場の独創的な点は、経済的自由と社会的正義は相反するものであるという見方を壊したことにある。しかし、この二つが必ずしも対立するものではないとはいえ、経済的自由を強く保障すれば貧困が拡大するのではないかという危惧が生じるだろう。経済的自由と社会的正義という対立軸を超えることができるという言うのであれば、この二つがどのように両立、ないしバランスが取れるのかを示す必要がある。本記事の目的は、これに取り組むことである。最初に、経済的自由の擁護を簡潔に確認する。それから、経済的自由が社会正義と両立できるかを述べ、社会正義が実現するための条件と社会正義を実現する方法の効率性を議論する。
(1)経済的自由の範囲
ここで行う経済的自由の擁護は、「経済的自由を妨げれば、必然的に他の諸自由も妨げることになる」というプロセスで論じられる。つまり、他の自由を保障するのであれば経済的自由の重要性も認めなければならないことを示す。その前に、経済的自由に含まれる行為を羅列したい(Nickel 2000: 156-157)。
(a)労働:労働を行う自由および生産において労働を使用する自由
これは自身の身体を用いて労働を行う自由であり、自身が選択した生産的活動に時間を割く自由でもある。この自由においては強制労働や奴隷労働は認められない。
(b)商取引または売買:経済活動の自由
これは個人、世帯、またはそれ以上の規模の単位において財を扱うことに関わる自由である。この自由に含まれる行為は、売買、契約、起業、投資、貯金、経営などである。
(c)保有:財産を保有する自由
これは経済的目的のために財を獲得・保有する自由であり、経済的主体はこの保有している財をもとに経済活動を行う。
(d)使用:財・商品・サービスを消費する自由
これは、正当に保有した財を消費や生産に付す自由である。この自由は個人や世帯レベルであれば食事、居住、服の着用など日常生活のすべてに関わる。
(2)経済的自由の重要性
経済的自由を妨げれば必然的に他の諸自由も妨げることになるという議論は「結合論証」と呼ばれ、それは経済的領域でなされる行為は他の領域でも行われるから経済的自由は他の自由とも結合しているからである(Nickel 2000: 157-158)。ここでは、経済的自由と結合しているものとして政治的自由を挙げたい。経済的自由が重要ではないからといってそれを妨げれば政治的自由をも妨げてしまうことを示し、経済的自由が他の自由と等しく基本的なものであることを示したい。
政治的自由とは、集会や結社などを通じて思想を流通させ、そのような政治的活動で社会体制に影響を及ぼす行為に関わる自由だ。そのような活動を行うためには拠点とする建物・設備が必要であり、団体を維持する資金も必要になるだろう。政治的活動では、上で挙げた4つの経済的自由の活動を必ずしなければならない。したがってもし経済的自由を制限した場合、政治的自由も制限を受けることになるのだ。資金を得るための経済的活動ができないのであれば、ビラやポスターを作ることはかなわない。資金がなければ、街頭で演説をするための設備を揃えることができない。このようにして経済的活動は他の活動と結合しているために、その制限は望ましくない結果をもたらすのだ。
しかし、資金がなければ政治的活動ができないのは確かであったとしても、資金獲得を自身で行う必要はないのではないかという反論がなされるかもしれない。つまり、政府からの資金交付を受けて政治活動をすればよいと言われるかもしれない。しかし、そのような交付ももともとは誰かの経済的活動に課税をして得たものである。ここでは誰がその資金を稼いだかが問題となっているのみで、何であれ経済的活動がなされることは変わらない。したがって、経済的自由の重要性そのものは依然として健在である。
ここまで行ってきたのは、広範にその重要性が共有されている政治的自由に経済的活動が深く関わっていることを示し、経済的自由を制限することは政治的自由にも重大な制限を付すことを述べたことだった。非常に簡単ではあるが、この議論によって経済的自由が重要なものであることがある程度示されたものとしよう。しかし、この議論に突き付けられる問題がある。それは、「経済的自由を認めることは貧困や格差の拡大を許容することになりはしないか」というものである。つまり、経済活動によって富める者もいれば困窮に陥る者もいる。経済的自由はそのような状況を許容するから制限をかけるべきだ、という議論である。言い換えれば、この問題は経済的自由が社会正義と両立しえるかということを提起する。社会正義が「社会の成員間における利益と不利益の分配」に焦点を当てるものであり(Miller 1999: 1)、特に貧困層などの恵まれない者たちにとっての社会の望ましさを問題にするものであるならば、経済的自由はそれに対してどのようにアプローチができるかを論じてみたい。
(3)経済的自由と社会正義は両立できるのか
ここでは、二つの議論によって経済的自由にとっても社会正義が重要であることを示す。第一に、貧困においては積極的自由としての経済的自由が欠如していることを述べ、第二に、これまでになされてきた社会正義への批判は実のところ社会正義そのものへの批判ではなかったことを確認し、むしろ社会正義の名のもとに行われてきた政策に対する批判であったことを述べる。
(α)積極的自由としての経済的自由
自由の有名な区別として「積極的自由」と「消極的自由」が存在する。前者は「ある目的を達成する能力」のことを指し、後者は「干渉や妨害の欠如」のことを指す(Brennan 2016: 34)。「空を飛ぶ」という行為を例にしよう。積極的自由においては、空を飛ぶ自由があるかどうかはそれをする能力があるかどうかによって決まる。鳩は空を飛ぶ自由があるが、ヒトにはその自由がない。それに対して、消極的自由では飛べようが飛べまいがそれを邪魔されれば自由がなく、邪魔や妨害がなければ自由がある。
多くの古典的自由主義者やリバタリアンは積極的自由を間違った概念であると論じるが、積極的自由を認めたからといって直ちにそれが政府によって直接促進されるべきことは導かれないから、積極的自由を認めたとしても古典的自由主義者やリバタリアンが懸念する事態には必ずしもならない。ここでは、事実としてある行為ができない場合には「積極的自由がない」と言える用法があることを確認しているのである。
経済的自由も積極的自由と消極的自由の枠組みで区別することができる。積極的観点としての経済的自由とは経済活動をするキャパシティがあることであり、消極的観点としての経済的自由とは経済活動を妨害せずに行えることなのである。貧困が経済能力の欠如を意味するのであれば、まさに貧困とは経済的自由が損なわれている状況のことである。(1)の(d)で示した「財・商品・サービスを消費する自由」には食事、居住、着衣の使用など日常生活に不可欠な行為も含まれている。金銭的欠乏によってそれらの行為ができないのであれば、それは経済的自由が制限されていると言って差し支えない。
(β)社会正義は間違った概念なのか?
社会正義に対して一貫して批判的態度を取ったのはハイエクである。ハイエクによれば、人間が設計したものに対してのみ正しい/正しくないということが言えるであって、市場は人間が意識的に作り出したものではないため、例えば自然災害で被害にあった人は可哀そうではあっても、正しいとか正しくないということは言わないのと同じように、市場による経済活動の結果貧困者が生まれても、それは可哀そうではあっても正しい/正しくないと言うことはできないと論じた。したがって、そもそも「社会正義」という言葉は意味を持たない空虚な概念であると批判する(Hayek 1979: 68)。
さらに、政策の場で「社会正義」の概念に訴えることは効果的であり、ある特定の方策が「社会正義」によって要求されているかどうかが議論されてきたが、しかしそこで言う「社会正義」という言葉が実際に何を意味するかが議論されることはあまりなかったとハイエクは述べる。特定の集団のために政府が政策を行う際にその意義が「社会正義」という言葉で訴えられ、それに対する反対意見はすぐに弱まってしまうという(Hayek 1979: 65)。
しかし、ハイエクも最低所得保証の必要性自体は認めている。ハイエクは以下のように言う(Hayek 1979: 55)。
すべての人に一定の最低所得を保障すること、つまり、自活できなくても誰も落ちない床のようなものは、すべての人に共通して生じるリスクに対する完全に合法的な保護であるだけでなく、偉大な社会において個人が自分の生まれた特定の小集団のメンバーに対して特定の要求をすることがなくなるために必要な部分であると思われる。
ハイエクのような古典的自由主義者やリバタリアンは分配的正義や社会正義の理念を拒否しつつも、自身が支持する制度は貧困層にも利益をもたらすべきであると考えていた。つまり、彼らの多くは暗に以下のことを受け入れているのである。それは、「社会的・経済的制度というものは、それがその社会の内で最も恵まれない者の利益になる場合においてのみ正しいとみなされる」という「分配十分性条件」である(Tomasi 2012: 125)。したがって、社会体制の望ましさを測る基準として社会正義を使用する余地はあると言えよう。
(4)社会正義の条件:その手続き的正当性(procedural legitimacy)
社会正義を批判する者であっても、貧困を緩和する必要性自体は認めていたことを見てきた。では、社会正義の問題は結局のところ何だったのだろうか。
ハイエクは、政策の場で「社会正義」という言葉が濫用されてきたことを批判していたことを思い出してほしい。この議論では社会正義そのものが反駁されているのではなく、むしろ政策を決定するプロセスにおいて不正が行われたことを批判していることがわかる。とするならば、この議論においてハイエクが実際に批判していたのは政策決定プロセスにおける正当性(legitimacy)ではないだろうか。つまり、争点になっているのは、貧困問題を解決すべきかというレベルではなく、どのようにしてその問題を解決すべきかどうかということだったのだ。
ヘルスケアの領域において、政策決定プロセスにどのような条件が課されるべきかが議論されている。それによれば、政策決定プロセスが正当であるためには以下の4つの条件を満たす必要がある(Daniels and Sabin 1997)。
- 公示性(Publicity)。政策決定プロセスに対する制限がなされる場合、その根拠は公に公開されなければならない。
- 合理性(Reasonableness)。政策決定プロセスに制限を付す根拠は合理的なものでなければならない。
- 競合性(Contestability)。新しい議論や証拠を提示する適切な機会を提供し、政策決定プロセスに対する制限の決定に異議を唱えることができる制度がなければならない。
- 強制力(Enforcement)。制限の設定に最初の3つの条件を守らせるための制度がなければならない。
貧困を解決するためであるとはいえ、政府が何をしても良いわけではない。ヘルスケアの領域に限らず、経済的活動に関する政策においても以上の条件は有効であるように思われる。
(5)社会正義を実現する方法:直接統治の誤謬(The fallacy of direct governmentalism)
上で示した4つの条件を満たした政策によって貧困を除去しようとしたとしても、そこには効率的な政策もあれば非効率的な政策もあるはずである。
実は、貧困の除去が重要な問題であってとしても、それを政府が直接行うことは非効率であるという議論が可能なのである。ある目的を達成することは価値があると判明したとき、それが(ⅰ)政府によって行われるべきである、また(ⅱ)政府によって直接達成されるべきであると考えるのは必ずしも正しいわけではなく、このように考えてしまうことは「直接統治の誤謬」(The Fallacy of Direct Governmentalism)と呼ばれる(Brennan 2016: 143)。
ある目的があったとして、それを満たす手段は様々に存在するだろう。その目的を意図的に達成する場合があれば、意図せずして達成してしまうこともある。例えば、ある政府が社会の福祉を促進するという目標を設定したとしよう。おそらく政府はそれを直接的な手段でそれを達成しようとするはずだ。例えば、福祉事務所を設置したり、補助金を出したり、公共事業をしたりするだろう。しかし、政府は福祉を促進するという目的を間接的に達成することも可能である。間接的な手段としては例えば、法の支配、公正な司法制度、正常に機能する所有権制度の設置などである。これらによって、その制度のなかで人々が自由に行動した結果社会の福祉が向上し、当初の目的を達成することができる場合がある。
ある目的を直接的に達成しようとすると逆に失敗してしまう事例として、快楽主義のパラドックスがある(Brennan 2007: 289)。これは、快楽の増大をあからさまに目的として行動すると、かえって快楽を得られなくなってしまうというものである。例えば、もしかなり単純な人がいたとして、その人はただ快楽を得ることのみを目的にしている場合、その人にとってこの世のほとんどの活動(学問、芸術、スポーツなど)は快楽を得る手段でしかなく、本質的には価値のある行為ではなくなる。しかしそうすることでむしろその人は快楽を得ることが困難になってしまう。なぜなら、芸術やスポーツなどの活動というものは、まずその活動そのものを価値あるものとみなして打ち込まなければ最終的に快楽を得ることはできないからだ。例えば、テニスを楽しむためには、テニスは単なる快楽を得る手段ではなくて、それが価値ある活動であると感じながらテニスに打ち込む必要がある。
さらに別の例としてロールズの格差原理も挙げることができる。格差原理とは、経済的な不平等が認められるのは、それが最も不遇な人びとの利益になる場合のみとする原理である。しかし、不平等を認めた方が経済活動のインセンティブが上がることもロールズは認識しており、だとしてもそのインセンティブを下げたとしても格差原理を満たす必要があることを確信していた。ロールズは公正としての正義を満たすために最も適した制度は「財産所有のデモクラシー」(property-owning democracy)だと考えていたのである(Rawls 2001: 136)。ロールズによれば、効率性を重視する資本主義が劣るのは道徳的に恣意的な要素から深刻な所得格差が発生するからだという(Rawls 1999: 63)。しかし財産所有のデモクラシーにおいては様々な政府機関が設立され、雇用の安定やソーシャルミニマムの保障をするために価格システムの調整を行い、格差原理を充たすために財産権にも調整を行う(Rawls 1999: 242-251)。このようにして公正としての正義を達成するのだ。格差原理を直接的な方法で満たすことはしない資本主義に比べて、財産所有のデモクラシーは経済的な効率性には劣る。したがって、ロールズが認める通り、財産所有のデモクラシーにおける経済発展のスピードはゆっくりである。しかしそれは、社会制度における正義を達成するためには必要なことであるとロールズは考えたのだ。では、これから資本主義と財産所有のデモクラシーのどちらが格差原理を満たすのに良い社会かを見ていくことにしよう(Brennan 2007: 292-294)。
ここに二つの社会があるとしよう。片方は「パレート優位ランド」と呼ばれる社会であり、もう片方は「公正ランド」と呼ばれる社会である。パレート優位ランドは資本主義の形態を取る社会であり、階級が大まかに三つにわかれている。それぞれ、10、20、40の所得を持つ。それに対して、公正ランドはパレート優位ランドと同じ社会構造を持ち、階級が三つに分かれているが、格差原理にしたがいそれぞれ15、19、24のように所得が分配される。このような分配をするのは公正としての正義を直接的に達成することを目的とするからである。最初の時点では、公正ランドの貧困層はパレート優位ランドの貧困層よりも50%多くの財を持っている。以下の図は二つの社会における三つの階級が持っている財の量を表したものである。
パレート優位ランドでは経済的効率性を重視するから、経済発展のスピードは公正ランドよりも速い。一方公正ランドは格差原理を満たすために、なるべく最初の「15-19-24」の比率を保とうとする。この比率を保つ過程で、政府が市場に対して介入を行うので、それによって市場における情報の伝達、イノベーション、労働意欲は低減する。しかし、政府による介入は、ロールズにとっては格差原理を満たすためには必要なのだ。

上に示した図をみて欲しい。パレート優位ランドは年に4%の経済発展をしている。一方で公正ランドは年に2%の成長率だ。話を単純化するために、二つの社会の成長率は常にそれぞれ4%と2%の固定である。以上の図をみると、1900年時点では公正ランドの貧困層の方が多く財を持っていたのに対して、25年が経過すると、パレート優位ランドの方が貧困層の持つ財の量が多くなり、100年経過すると、三つの階級すべての持っている財の量に明らかな差ができている。ここで明らかにされたのは、直接的な方法で目的を達成することが必ずしも効率的であるとは限らないということであり、間接的な方法も視野にいれるべきであるということである。
終わりに
本記事で示そうと試みたのは、経済的自由を擁護することは直ちに社会正義と矛盾するわけではないということだった。むしろ、経済的自由が基本的自由であると言えるならばそれが損なわれた状態である貧困は積極的に除去すべき対象になることが明らかになった。
しかし、貧困の除去を達成するために福祉国家がすぐに肯定されるわけではない。「直接統治の誤謬」の議論が示すように、経済的効率性を重視した方が貧困層にとって有益である可能性が残されているのである。対立軸となっているのは、社会正義を認めるかどうかではなくむしろそれをどのように達成するべきかであり、経済的自由を認めることは社会正義を達成する十分条件ではないが少なくとも必要条件なのである。
参考文献
Brennan, J. (2007) “Rawls’ Paradox”, Constit Polit Econ, 18: 287–299.
—————(2016) Political Philosophy An Introduction. Washington, D.C. : Cato Institute
Daniels, N. and J. Sabin, (1997) “Limits to Health Care: Fair Procedures, Democratic Deliberation, and the Legitimacy Problem for Insurers”, Philosophy and Public Affairs, 26: 303–350.
Hayek, F. A. (1979) The Political order of a Free People, Vol. Ⅲ of Law, Legislation and Liberty, London: Routledge.
Miller, D. (2000) Principles of Social Justice, Cambridge: MA: Harvard University Press.
Nickel, J. (2000) “Economic Liberties”. In Davion, V., Wolf, C. (eds.) The Idea of Political Liberalism: Essays on Rawls. New York: Rowman & Littlefield.
Rawls, J. (1999). A theory of justice. Cambridge, MA: Belknap Press.
————(2001). Justice as fairness: A restatement. Cambridge, MA: Belknap Press
Tomasi, J. (2012), Free Market Fairness. Princeton University Press.


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