【リバタリアン・パターナリズム】「そっと押す」仕掛けはリバタリアン的にアリか?

目次

ナッジとは何か

ナッジとは、もともとの原義によれば、

「どんな選択肢も閉ざさず、また人々の経済的インセンティブも大きく変えることなく、その行動を予測可能な方向に改める選択アーキテクチャの全様相」

(Thaler and Sustein 2008)

と言われている。簡単に言ってしまうと、

選択肢は残しつつ、より良い方向に、こっそり導く仕掛け

と定義することができる。

デフォルトの設定を本人の利益になるように設定しつつ、選択肢も用意することで強制はしない、というのがナッジである。

ナッジの例。線路と並行に座席を配置することで予期しない転落を防止する。

ナッジのあれこれ

・臓器提供をデフォルトでOK:提供したくない人にチェックさせることで、臓器提供の同意率を上げる

・無料のがん検診で「受けないと今後案内しない」

・禁煙のために場所の制限や販売場所を減らす

背景にあるリバタリアン・パターナリズムとは?

リバタリアニズムとパターナリズムの組み合わせであり、「個人の選択を制限することなく、当人の利益になるように介入すること」と定義することができる。

従来型のパターナリズムとの違い

従来型のパターナリズムは、例えばシートベルトの強制や皆保険制度、薬物禁止といったものが具体例として挙げられる。その背景として、「長期的に見て当人の利益になるのだったら、短期的な利益はある程度制限してもよい」という考え方がある。

さて、従来型のパターナリズムとリバタリアン・パターナリズムの違いは、

・強制ではなく「そっと押す」
・行動経済学の知見を活用し、錯覚やバイアスを活用する
・「選択の設計は不可欠だから、望ましいものを作るべき」という発想に基づく
(那須 2016) 

などが挙げられる。

行動経済学の成果で、選択を狭めることなく行為者当人の状況を改善させる手法を採用したところと、錯覚やバイアスを能力ないし政策資源とみなしたところが従来型のパターナリズムにはない発想だと言えるだろう。

提唱者であるセイラー&サンスティーンの考えには、行為を選択するユーザー・インターフェースの設計は不可避であり、であるなら望ましい環境を設計する方がよいというものがある。

例えば、「レストランのメニューを選択する」を考えてみても、メニュー表が紙なのかタブレットなのか壁面なのか、メニューの順番は、店員を呼ぶのか注文票を書くのか、といった形でさまざまな設計が背景にある。そうした設計の際に、行動経済学の知見を活用しようというのが、リバタリアン・パターナリズムの発想である。

リバタリアニズム的にどうなのか?

ポイント1:前提条件の違い

ナッジの提唱者であるセイラー&サンスティーンは「ナッジとインセンティブで政府は小さく穏当に」という考えを持っている。この考えの背景には、政府の役割はある程度合意済みであり、それをいかに実践するかという点にフォーカスしている。

一方、多くのリバタリアンは、政府の役割をどこまでにすべきか、という点にフォーカスしている。リバタリアンにとって、政府と民間の境界線は前提条件ではなく、議論が必要だと考えている。

以上を踏まえると、セイラー&サンスティーンと、リバタリアンでは前提条件に違いがあり、まずその点をどう捉えるか、という点で議論が必要である。(福原明雄 2020)

ポイント2:設計者は行為者の好みを理解できない

次にポイントとなるのは、設計者は、それを実際に使用する人の好みや欲求に関して、その人よりもはるかに知らない、という点である。

昨今の行動経済学における様々な研究から、人間は従来の経済学が想定したほど合理的には動かず、さまざまな要素によって選択が左右されることが明らかになってきている。人間は自分の行動に対して思ったほど理解していないというわけだ。

しかしながら、行為者本人と比較した場合、アーキテクチャを設計する人が行為者の「真の欲求」を理解はできないという問題がある。行為者の欲求や好みがわからないのに、どうしてその人の長期的な利益なるような設計が可能になるのか?それは設計者のエゴの押し付けではないか?という話である。

ポイント3:責任の不透明化

ナッジには目覚ましナッジと幻惑型ナッジの2種類がある。

前者はナッジであることが明白にわかるケースで、教育型ナッジとも呼ばれており、デフォルトの選択肢と別の選択肢が明示されているケースである。反射的に選択してしまいがちなところに待ったをかけ、考えさせるのが狙いである。(例:クーリングオフの保障など)

一方、後者の非教育型ナッジとは、ナッジとは一見明白ではなく、別の選択肢もわかりにくいようなナッジのことである。反射的な反応や選択を利用したものが多い。(例:高カロリーなメニューが奥の方に隠される、喫煙への嫌悪広告など)

問題となるのは、後者のナッジを経て人々が何らかの選択をしたとき、その責任の所在がどこになるのか不透明になることだ。もちろん選択したのは行為者なのだが、その選択の背景に知らず知らずのうちに設計者の意図が反映されている場合、本当に行為者が選択の帰結や責任を負うべきなのかは議論の余地がある。

目覚ましナッジと幻惑型ナッジは連続的なものであるため、厳密な区別が不可能である。そしてセイラー&サンスティーンの言うように、なんらかのアーキテクチャの設計は不可避であるため、設計者の意図が全く反映されないような選択の設計は不可能である。とはいえ、アーキテクチャによって無意識のうちに選択に干渉されることは、リバタリアニズムにとって問題点となりうる。

まとめ:「選択の自由」に対する再考が必要

ナッジの背景には、選択肢が用意されていても実際に選択できなければ意味がなく、実際に選択するための障害を取り除くものがナッジである、という考えがある。

確かに、いくら選択の機会が広がるからと言って、スーパーでケチャップの種類が100種類用意されていた場合、実際に選択するのは困難である。何らかの方法で選択肢を狭めることで、むしろ選択しやすくなるという事例は、リバタリアニズムにおける「自由」をどのように考えるかについて再考を促しうる。

従来想定されていた「合理性」が机上の空論であったのと同じように、人間にとっての「自由」や「干渉」がどのようなものかについて、実証的な研究とともに考え直す必要があるのでは?というのが、私がリバタリアン・パターナリズムから提示された課題だと考える。

追記

参考文献

Thaler, R., & Sunstein, C. (2008). Nudge: Improving decisions about health, wealth, and happiness. Constitutional Political Economy, 19(4), 356–360.
那須耕介. (2016). リバタリアン・パターナリズムとその10年. 社会システム研究, 19, 1–35.
福原明雄. (2020). 「「リバタリアン」とはどういう意味か?ーリバタリアニズム論の視角からみたリバタリアン・パターナリズム」. In 那須耕介 A. 橋本努 (Ed.), ナッジ!?: 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム.. (pp. 174–191). 勁草書房.
森村進. (2021). 法において自由はどのように重要なのか. 哲学, 2021(72), 36–48.

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この記事を書いた人

東京大学文学部卒。
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