能力主義 vs リバタリアニズム

目次

はじめに

このページではリバタリアニズムと対比させる形で能力主義(メリトクラシー、meritocracy)について取り上げ、それぞれの考え方の違いについて能力主義者によるエッセイを参照しつつ概観した後、リバタリアニズム側による反論を試みる。

エッセイの著者であるThomas Mulliganはジョージタウン大学の客員研究員として、経済的な公正と集団意思決定について研究している研究者である。

能力主義 meritocracy について

本章では、特に断り書きがない限り以下の文章の要旨である。

Mulligan, T. (2017). What’s Wrong with Libertarianism: A Meritocratic Diagnosis. In J. Brennan, D. Schmidtz, & B. van der Vossen (Eds.), The Routledge Handbook of Libertarianism (pp. 77–91). New York: Routledge.

能力主義とは

「人は相応のものを手に入れるべきだ」という考え方に基づく正義の理論である。個々人の能力によって仕事や所得を分配するべきであり、また能力を厳密に評価するために「公正な機会均等」を求める立場である。

リバタリアニズムとの共通点

  • 経済的分配と平等の道徳的関連性を否定。
  • 個人の責任を重視
  • 理論の正当化に経済的な実態に訴えかける。基本的に市場が最適である。

リバタリアニズムとの違い

公正な機会均等(Fair EO)を求める

人々の功績によって仕事や所得を分配するためには、競争する人を差別する基準が実力だけという形式的な機会均等(Formal EO)のみならず、実力以外のあらゆる差別や実力以外の不利な状況がない公正な機会均等が不可欠だとする。例えば、黒人が人種差別によって不利な社会では、功績が実力以外のものによって価値が損なわれるため、公正な社会とは言えない。(指標として世代間所得弾力性が挙げられる)

リバタリアニズムは大規模な再分配が必要となるため公正な機会均等は問題点として挙げていない。(例:ハイエク)

能力にそぐわない対価や経済的レントを不正とする

能力主義において、能力以外による対価は不正である。そのため、不勉強で怠け者だが金持ちの子供が金持ちになるのは不当である。また、仕事に対しては最も優秀な人が就くべきであり、実力以外の要素で採用することは経済的損失のみならず不道徳でさえある。

リバタリアニズムでは自由な雇用や解雇が多く主張され、実力を重視しない場合は自由市場において不利益を被っているので、それ以上の規制や介入は不要と考える。

経済的レントに対する抑制として公共政策を用いる

高い税率の所得税や相続税、縁故採用を始めとする実力以外の要素を採用から排除することなど、能力主義を実現するために政策を用いる。また、公正な機会均等を実現することと合わせて、アンチ・アファーマティブ・アクションの立場をとる。

リバタリアニズムにおいて、経済的レントはそもそも問題ないとする立場や、レントは政府からの規制によって生じるという立場はあるが、レントを政府主導で解消していく動きはない。

リバタリアニズムから見た批判

ここからは、上記の能力主義の立場や意見の立場に対して、リバタリアニズムの立場から批判を行う。

強権的な大きな政府が不可欠

能力主義のために公正な機会均等の実現や経済的レントの排除を行う場合、政府による民間の経済活動への制限ないし介入が不可欠である。Mulliganは価値創造に対する報酬に対するリバタリアンの反論に対して、「功績に報いるのではなく中央計画に対する反論に過ぎない」として退けているが、功績に報いるための再分配を行うにあたり、功績の測定と分配を政府が決めるため、中央集権的な計画を用いることは不可欠である。そこから、社会主義的な中央集権国家に対する批判が能力主義の国家にも当てはまると考えられる。

仮に能力主義的な功績の測定と報酬の分配をブロックチェーンのスマートコントラクトなどを用いて人の介在しない形で自動的に行うにしても、経済的レントに対して、既存の資産に対する所得税や相続税による介入と是正を行う場合にはやはり強権的な税制が必要となる。

「能力・功績は一律に測定できる」という誤解

能力主義による正義によれば、能力や功績を何らかの指標に基づいて測定する必要がある。功績の要素としては努力や生産性などが例示されているが、いずれにせよ能力主義によって政府が何らかの指標を定め、それに応じて再分配を行うということは、その指標にはある程度の客観性と信頼性が担保されなければならない。

しかしながら、そんな指標は存在しうるだろうか。能力や功績は多元的である。数値として還元が困難な能力や功績はいくらでも存在しうる。そのような性質を持つ能力や功績を定量的に評価する場合、ある程度の恣意性は避けられないが、能力や功績を適切に評価できない能力主義は「能力によって分配を行う」という原理に反するのではないか。

念のため書いておくが、会社や学校がなんらかの指標に基づいて人を判断することに対しては問題ない。それぞれの組織の目的に合った形で判断することは自由である。組織は複数あり、組織に参加を希望する人は、複数の組織からある程度自由に選択ないし志願することが可能である。しかし、政府が能力主義をとる場合、国民は能力主義をとらない、という選択肢は取らないことができないのが問題である。

「自己責任論」に対する応用的反論

ここまで、能力主義の概要とリバタリアニズムの反論を見てきた。私見によれば、能力主義を徹底できる国家は中央集権的な国家しかありえず、現時点では政治的資本主義をとる中国が最も近いように思える。(ただし世代間所得弾力性は他の先進国に比べて低水準である)

能力主義は現在も政治哲学の中では少数派であり、今後積極的に議論ないし注目される可能性は現時点では少ないと私は考えるが、能力主義の主張からは学ぶべきことも多々ある。特に、「責任」と「公正な機会均等」に関しては大いに参考になる。

1980年代以降から一つの代表的な政治的な潮流となった「新自由主義」(この用語自体は学問的というよりかはジャーナリスティックに用いられており、定義が困難ではある)において、「自己責任論」が一つのトピックとして挙がっている。小さな政府を推進する一方で、自己責任的にふるまうよう喧伝されている。

しかし、能力主義の議論を見る限り、自己責任を徹底させるならば、「公正な機会均等」の実現は不可欠のように思われる。逆に言えば、「公正な機会均等」が実現されていないのにもかかわらず、自己責任について追及するのは、自己が持つ自由の範囲や権利に対してアンバランスである。

能力主義が強みを持つ責任の議論は、リバタリアニズムにおいても検討する必要がある。リバタリアニズムが仮に自己責任について強く言及するのであれば、機会均等と自己責任の関係について考察するのは避けられないだろう。

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この記事を書いた人

東京大学文学部卒。
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