サマリー
今回はこちらのツイートの中身について書いていきます。
そもそも功利主義とは
功利主義はよくベンサムの「最大多数の最大幸福」という標語で知られているが、功利主義の研究者である児玉(2012)は以下の3つの要素を挙げている。
- 帰結主義:結果を重視し、それによってルールを検証する。そのため功利主義は将来の予測に依存する。(ただし、手段や動機を無視するわけではない。後述する)
- 幸福主義:結果において重要なのは幸福であり、幸福はそれ自体で価値がある。幸福の中身については、例えばベンサムは「快楽説」を唱えている。
- 総和最大化:人々の幸福の総和の最大化を目指す。
また、若松(2017)も、アマルティア・センに依拠しつつ帰結主義、厚生主義(個人の構成に対して与える影響に基づいて道徳的評価を行う)、集計主義を特徴としてあげており、この3点が功利主義の特徴として考えて良いだろう。
上記の特徴のうち、特に総和最大化が功利主義の特徴として最もよく知られており、かつ「冷徹」「人権無視」として批判を浴びやすい。例えば、『これからの正義の話をしよう』で知られるサンデルは、功利主義批判としてトロッコ問題を用いている。
トロッコの行き先の線路に5人が横たわっており、このままだと5人が亡くなる。一方、路線を変更することができるが、変更先には1人が横たわっており、変更すると1人が亡くなる。この時、路線を変更すべきか。
功利主義に基づけば、総和最大化の観点から路線を変更することになる。しかしながら、自分の選択によって1人の人命が失われることは、本当に正当化できるのか。そもそも、それらの幸福は本当に5人の方が多いのか(例えば、死期が迫っている5人と1人の赤ちゃんなら?)。これらから、功利主義に対しては「人権軽視」「功利が計測できない」「実行できない」といった批判がなされている。
「豚の哲学」批判への反論
「豚の哲学」という批判は、功利主義が快楽主義的な価値観に基づいており、人間の尊厳や高度な精神的価値を無視するというものです。この批判は特に、ジェレミー・ベンサムの功利主義に対してなされることが多いです。彼の功利主義は、行為がもたらす快楽と苦痛の量を計算し、快楽の最大化を目指すというものでした。
この「豚の哲学」批判に対する反論には以下のようなものがあります:
質的区別: ジョン・スチュアート・ミルはこの批判に対して、快楽には「質的な違い」があると主張しました。彼は、精神的、知的な快楽は、単なる身体的快楽よりも質が高いと考えました。したがって、人間は「豚」のように単純な身体的快楽だけを求める存在ではなく、より高い形の快楽を重視するという点で豚とは異なると主張しました。
長期的な快楽: いくつかの功利主義者は、単なる一時的な快楽ではなく、長期的な幸福や満足を重視します。このアプローチは、短期的な快楽よりも、個人の全体的な幸福や生活の質に重きを置きます。
偏見への挑戦: また、この批判は、快楽の価値を過小評価する文化的、社会的偏見に基づいている可能性があります。全ての快楽が低俗で表面的であるという考え方は、快楽を享受すること自体の価値を正当に評価していない可能性があります。
プラグマティズムと実用性: 功利主義は、実際の結果に基づいて道徳的判断を下す実用的な道徳理論です。そのため、理論が提供する指針は、現実の複雑さや人間の多様なニーズに対応するのに有効であると主張されています。
「豚の哲学」批判に対するこれらの反論は、功利主義が単なる快楽の追求以上のものであるという点を強調しています。また、個人の尊厳や高度な精神的価値を無視するものではなく、これらを快楽の質的な側面として取り込む試みがなされています。
「経験機械」批判への反論
「経験機械」批判は、ロバート・ノージックによって提起されたもので、功利主義が快楽を最も重要な価値として扱うことに疑問を投げかけるものです。この批判では、人々がリアルな体験を模倣した仮想現実に接続され、任意の経験を得られる「経験機械」に入ることを選ぶかどうかを問います。多くの人は実際の体験と交換に仮想現実を選ばないため、この批判は功利主義が快楽だけを重視することの問題点を示唆します。
「経験機械」批判に対する功利主義者の反論には以下のようなものがあります:
快楽の多面性: 功利主義者は、快楽には多くの形態があり、単に感覚的な快楽だけではなく、真実や現実に基づく快楽も重要であると主張することができます。したがって、「経験機械」は、現実世界での快楽の多様性や深さを完全には再現できないという点で不十分かもしれません。
自律性と選択: 一部の功利主義者は、自律性や個人の選択の自由も重要な価値であると考えます。これらの価値は、仮想現実ではなく現実世界での体験を選択する理由となり得ます。(選好功利主義)
プラグマティズムの視点: 功利主義は、理論よりも実践に重点を置く哲学であり、実際の生活において現実的な選択を行う際の道徳的指針として機能します。そのため、理論的な思考実験よりも実際の行動とその結果に重きを置くことがあります。
価値の多様性: 功利主義者の中には、快楽以外の価値(例えば知識、美、友情など)を認識し、これらの価値も重要であると考える者もいます。これらの価値は「経験機械」では十分には得られないものです。(多元主義的功利主義)
公共哲学から見た功利主義
筆者は、公共哲学という観点で功利主義を考える場合では、リバタリアニズムやリベラリズムと同様に検討されるべきだと考えている。公共哲学とは端的にいえば国家や自治体といった公共体や市民社会のようなパブリックな場における哲学である。これらの場での規範や資源の分配にあたっては、どうしても「此方を立てればあちらが立たず」と行った状況が出てくる。そのような場では、功利主義の客観性がむしろメリットとして活きてくる。また、公共のルールの基礎として利用されるため、個人の選択における問題も回避できる。これらを踏まえると、政治哲学を検討するにあたって、功利主義は考えるべき理論と言える。
リバタリアニズムの観点から見ても、その擁護される理由の一つに「帰結主義」が挙げられる。また、現代リバタリアニズムの一角を占めるであろう新古典的自由主義でも、実証的な観点が重視されている。つまり、「結果重視」を考察することは、功利主義のみならず、リバタリアニズムを考える上でも重要になってくる。
安全提供原理 security-providing principle
ベンサムは正義に関して恣意的なものと見做した一方で、議論の中で実質的な正義論は展開していた。その中で立法の役割として、人々の相互の「期待」を守るために、人々の安全を保障するべきであると論じている。これが安全提供原理と呼ばれるものである。
人々の幸福の追求はそれぞれに委ね、幸福の追求の基盤づくりとして、不当に財産を奪われないようにしたりするような法整備を行うことが重要だとベンサムは論じていた。これはロックやホッブスの社会契約論や、ノージックの最小国家論に通ずるものがあるが、ベンサムは当然守られるべき権利として擁護するというよりかは、あくまで功利性に基づいて擁護することに特徴を見出すことができる。
失望回避原理 disappointment-preventing principal
安全提供原理と合わせて重視されるのが失望回避原理である。これは、功利性に基づく改革において、急進的な変革は逆に苦痛が生み出される可能性がある。この苦痛を避けるために、漸進的な変革をもたらすよう、目的のためのプロセスや動機を重視するためにある。
上記の安全提供原理のためにもたらされる変革では、現行の制度でもたらされきた功利性を上回るように改革を行わなければならない、というのが失望回避原理である。変革の中でこれまでの人々の「期待」について軽視することのないよう戒めるベンサムのイメージは、「急進派」「ラディカル」とは違った側面を見出すことができる。
マイノリティの擁護から動物倫理まで
功利主義と多数派による専制のイメージが強いため、ベンサムがマイノリティの保護や果ては動物倫理に関して言及していたことを聞くと意外にも感じられるかもしれない。
しかしながら、ベンサムは功利性の適用範囲として、「個々人、階層、全国民、人類一般、あらゆる感覚的存在」を挙げており、マイノリティから動物までも考慮範囲に入っていることがわかる。
ベンサムの功利主義の基礎にあるのは徹底的な個人主義と平等主義にあり、構成員の価値は皆平等である。個人的な事情が捨象されることは反直感的な印象を抱くが、公共財の再分配という視点で見るとむしろ適切にも思える。
ベンサムは抑圧された女性や同性愛者への擁護論を書いていた。これは当時の社会で、男性が理性的な存在である一方女性は感情的な存在であり権利が認められない、同性愛に至っては「自然に反する罪」と見られていたことを踏まえると先見的だと言える。ベンサムは同性愛の擁護に関して、同性愛行為は誰にも苦痛を与えておらず、従って罰する根拠がないとした。「最大多数の最大幸福」とは言われるが、多数派の意見がそのまま受け入れられるわけではない。(坂井 2017)
「直観に反する」という批判に対する反論
最後に、功利主義に対する批判のタイプとして有名な「反直観論法」に対する反論を見てみよう。「反直観論法」は、端的に言えば「それって直観に反するよね」という論理であり、上記のトロッコ問題でも「5人の命を助けるからと言って、1人を犠牲にしていいのか」という類の議論である。また、幸福主義/厚生主義に対しては、「豚の哲学」と呼ばれるような、「快楽だったらなんだっていいのか?」「禁欲に価値はないのか?」といった批判である。感覚的な要素を数量的なものに置き換えようとする試みは、直感的ににわかには受け入れにくいかもしれない。
まず、トロッコ問題における「人権軽視」「直観に反する」といった批判に対しては、そもそも「人を見殺しにするな」という常識が平常時でしか通用しないということを見落としている。例えば災害の現場や医療の現場では、多数の傷病者が出た時に、重症度に応じて分類し、医療の順序を決めるトリアージというものがある。これは医療資源を最大限活用するために必要である。また、災害から避難する際には、自分の命をまず第一に考えるであろう。このように、常識に基づく批判はそもそも普遍性を持たないため、直感に基づく批判がどれくらい妥当であるかは状況次第である。そして、その状況に当てはまるかどうかを判断するには、常識的な道徳より高次元のメタ道徳が必要であり、その役割を功利主義は担うことができる。
次に、「快楽の数量に還元できない」「測定できない」といった批判に対しては、幸福や快楽などのさまざまな尺度こそあれども、現代の政治哲学においては個人の福利に多かれ少なかれ関わっており、個人の福利をどのようにとらえ(尺度)、どこを重視するか(ベンサムなら総和、ロールズなら最も少ない人の量)の問題になる。例えば生活保護の支給の有無や、保育園の入所の抽選といった、公共財の再配分に対しては所得やそれぞれの就労状況といった要素から定量的に決定しているが、これも個人の福利に対して定量的に判断していると言える。それならば、個人の受ける快楽や苦痛を定量的に測定する試みは、あながち非現実的とは言い難いだろう。
もちろん、快楽をどのように計算するかにおいては、ベンサムの快楽と苦痛の感覚こそ福利を決定するという快楽主義の他にも、現在の通説的な当人の欲求が満たされることが福利だとする欲求説、ベンサム流快楽主義の再提案であり、信念や希望といった命題として快楽や苦痛をとらえる態度的快楽説といった方法が提出されているが、いまだ議論の半ばであることがうかがえる。ただ、功利主義を過去の言説と考えてしまうことは、政治哲学や道徳哲学を考えるうえで重大な損失だと思われる。
参考文献
児玉聡. (2012). 功利主義入門: はじめての倫理学. 筑摩書房.
若松良樹編. (2017). 功利主義の逆襲. ナカニシヤ出版.
山岡龍一,齋藤純一. (2017). 公共哲学. 放送大学教育振興会.
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